物質的豊かさや、能力や才能といった目に見える豊かさが、絶対的な幸せの象徴と言われていた時代は陰りを見せています。それよりも、自分はなぜ、何の為に生きているのか、という根源的な問いを追求することで幸せを模索する人たちが増えているのが現代人の姿ではないでしょうか。
高校の教師をしておりました頃の私は、無力な自分、実力のない自分の姿を見せつけられる毎日でした。自分は「ダメ教師」「ダメ人間だ」。そんな思いが日増しに強くなり、私はいつしか死の道へと突き進んでいました。
手首、首を切り、溢れ流れる鮮血の中で死ねるはずが死ぬことができず、部屋の中にガスを充満させ火をつける、それでも死ぬことができませんでした。これから先、いったいどうしたらいいかわからない、全く真っ暗闇の中にいた私でしたが、幸いなことに様々な方々の手を通して現在の米沢興譲教会へと導かれるに至りました。
そこで私は、何ができるかできないか、何を持っているか持っていないかという外側の自分ではなく、内側のこのあるがままの私自身を受け入れて下さる神様の愛を知りました。そして、それまでの、自分にないものに目を向けて、そこを何とか埋めなければいけないという生き方から、自分にあるものに目を向けていく生き方へと変えられていきました。そのことは、高校の時以来遠ざかっていた歌の世界へともう一度目を向けていくこととなりました。気管が焼けただれ声が全く出なくなっても不思議ではなかったにもかかわらず、声が出せるという自分に気付いた時、何か厳粛な思いにさせられたのです。
この賛美集を通して、聴かれるお一人一人が賛美の内に住まわれる主の愛に触れられ、恵みに満たされることを願ってやみません。
ここまで支えてくださった皆様に心から感謝し、主に栄光を帰します。
長嶺由宇 |